大会の沿革
沖縄県青年団協議会(沖青協)は1948年に結成して以来、たえず地域の課題を真正面から取り上げながら、地域の発展に寄与する青年集団をめざし、あわせて青年達の連帯を深めることをねらいに社会、産業、文化、体育等々の幅広い活動を展開してきた。
その中でも、文化活動の中心となるのが、各地域で受け継がれてきた地域独特の個性豊かな民俗芸能を一堂に会して広く県民に披露し、その保全と異なる創造、発展にむけて沖青協の総力を挙げて取り組む「青年ふるさとエイサー祭り」である。
この催しは、日本の高度経済成長の起爆剤になったといわれている東京オリンピックが行われた1964年に、民俗芸能の中でも青年団が中心として継承しているエイサーと盆踊りを選抜して「第1回全沖縄エイサー大会」と銘打って開催されたのが始まりである。
その背景には、当時の沖縄が異民族(アメリカ民政府)の施政権下にあって社会全般が錯綜した時代であったが、オリンピックブームに湧く本土に対して、沖縄でも一大イベントを興そうという青年ならではの発想を基に開催した、意義ある祭りであった。
いらい、回を重ねて39回目を迎えたこの祭りも、年々盛大になっていくことと青年団が創り上げていくことは変わりないが、最初の形態がそのままに継続されたものではなく、その時代々の地域社会の要求に応えて変遷してきた。
第1回大会から第10回大会までは、隊形、演技、伴奏等の優劣を競うコンクール形式であった。その結果、門付き芸で地廻り的な要素が強かったエイサーを群舞芸能へ昇華させ、その神髄と魅力を生み出すのに寄与した面は高く評価されている。
その後、第11回以降は「コンクール」から「祭り」形式に改め、同時にエイサー以外に、各地の豊年祭や村遊び等の祭事の場で披露されている地域独特の民俗芸能も併せて披露することになった。
それに伴い名称も「全沖縄青年エイサー大会」から「青年エイサー夏まつり」、「青年エイサー祭り」、「青年ふるさと祭り」と変遷し、現在の「青年ふるさとエイサー祭り」として定着したのは第18回からで、会場を奥武山運動公園に固定したのも第14回以降である。
また、国際児童年を契機に第15回からは子供エイサーが出場し、更に第30回からは『青年文化フェスティバル』と銘打ち、現代青年が新しく創造した創作芸能も加わるようになり、より充実した祭りへと発展してきた。
沖青協では、この催しを組織強化と青年団をアピールする機会と捉えて、可能なかぎり優勝チームや参加チームから選抜して、全国的な青年の集いでもある全国青年大会へ派遣してきたが、特に沖縄復興帰以前の1967年に派遣した赤野青年会は、全国青年大会の終了後に全国各地を行脚して各地の青年たちと交流を重ねる中から沖縄復興を訴えたことは特筆される出来事であった。
また、第14回から第24回までは、沖青協結成35周年記念事業として県下青年団が推進した「沖縄県青年会館建設」の資金造成事業の一環と捉えて、会館建設の必要性をアピールする場にもなった。この間は観覧する多数の県民から入場協力金を頂戴したが、約6億円の沖縄県青年会館が完成した裏にはこのような県民各位のご支援があったことはいうまでもない。
一方、沖青協に結集する青年たちが運営してきたこの催しに、第15回から沖縄タイムス社、第17回から琉球放送が主催団体として加わって、事前広報やテレビ中継を実施した結果、回を重ねるごとに盛大になり、今では沖縄県になくてはならない一大祭りとして定着するに至っている。
